【新貯蔵庫完成】農口尚彦の醸す酒を「熟成」するべき理由
2025.04.11
春の訪れとともに今年も無事皆造を迎え、酒蔵には静けさが戻りました。しかし、今年はどうも様子が違います。
実は酒造りが始まるよりも前から、酒蔵の正面では長い間大規模な工事が行われておりました。酒蔵と向かい合うようにして建設される新貯蔵庫のための工事です。酒造りの終わりに合わせてこの工事も終了。新たな施設の誕生にスタッフ一同心を躍らせています。
さて、この巨大な貯蔵庫。なぜ今作らなければならないのか、ということが今回のテーマです。それは自ずと当蔵の日本酒に欠かせない「熟成」の話につながってきます。
今回は、当蔵の製造における姿勢や未来へ向けての話を、改めて農口杜氏に語ってもらいました。
皆さんは、農口尚彦研究所の日本酒のほとんどが「熟成酒」であることをご存知でしょうか。
当蔵が発売する日本酒には西暦が記載されていますが、それは発売年ではなく米の収穫年。直近の収穫米で造った日本酒は「PREMIUM NOUVEAU」や「春のしぼりたて」といった季節酒のみの販売です。
その年の米を使って酒を造り、その年に売り切る。日本酒業界の歴史においてはそれが常識であり、現在でも基本とされています。酒米の買付が先払いであることや、製造期間が長く現金化までに時間を必要とすることなど、酒蔵のキャッシュフローもその大きな理由の一つです。
しかし、農口尚彦研究所創設の構想段階で、農口杜氏が造る日本酒には「熟成」が大きなキーワードになるということが分かり、我々はそのためのシステム作りや設備投資に全力を注ぐことを決意しました。
理由①味わいを作り出す要素が全て長期熟成向
農口杜氏の日本酒の味わいをつくり出す要素には、
・高精白な酒米
・山廃仕込み
・無濾過生原酒
・使用する酵母
などがありますが、実はこれらは全て熟成に適した要素なのです。
ただ、これは熟成酒をつくるために集められたものではなく、もともと長い年月をかけて農口杜氏が目指す酒造りをおこなってきた中で自然と取り入れられてきたものであり、それを最も良質な状態にすることができたのが「熟成」という手法だったということです。
農口杜氏は1970~80年代にかけての吟醸酒ブームを巻き起こした一人とも言われていますが、それは当時から徹底したデータ管理と理論的な考え方で高みを目指し続けてきた探求心が生んだもの。農口杜氏の研究成果の一つが「精白を高める」という今も続く手法でした。
「70年以上酒造りを続けてきましたが、常に“より美味い酒を”ということだけを一心に考えてきました。私が駆け出しの頃の酒は精白度が2割ほどというのが基本でしたが、新たなことに挑戦したり地道に数値を記録したりと研究を続けることで、精白度を高めると私の求めているすっきりとした味わいの酒になることがわかってきました」と話す農口杜氏。
そして、更にこう付け加えます。
「それから、精白度が低い酒は完成後時間が経たないうちに飲んだ方が雑味が少なく、精白度が高くなると時間を置くことで味の調和がとれてくることに気づいたんです」
精白が低い米で造った酒には、磨いていない分様々な成分が多く残るため、時間を置くとその成分の味が出てきてしまい、本来の日本酒の味わいに劣化という形でマイナスに影響してしまいます。しかし、精白度を高めることで米における成分はシンプルなものとなり、時間を置くことで他の成分との一体感が生まれ、熟成としてプラスな影響を及ぼす、というのが農口杜氏が築いてきた理論です。
農口杜氏の代名詞と言われる「山廃仕込み」は、今も信念として掲げている“飲む人の声を聞く”ことを突き詰めた結果から選ばれた造りでした。
「私が酒造りの道に入ったのは、実は北陸ではなく東海地方でした。キリッとした飲み口の淡麗辛口が主流な東海地方で酒造りを学び、石川に戻ってその学びを活かそうとしたんです。当時の酒蔵は若い自分を杜氏にしてくれたのだからと一生懸命頑張って、1年目になかなか美味いなと思える酒ができたんです。しかし、酒蔵の社長は『これはだめだ』と。品評会に出したらよく褒められたんですよ。でも実際に酒を飲んでくれる地元の人たちには酷評されました。社長はそれを分かっていたんです。その地域は山間の地で、酒を飲む人の多くは林業に携わる人たちでした。汗水流して働き、山から降りてきた彼らが求めたのは味の濃い酒だったんです」
そんなお客様の声を聞き、考え抜いた先にたどり着いたのが「山廃仕込み」。これが地域の特性を踏まえた、日本酒の文化的テロワールを表現する方法だったのです。
山廃仕込みとは、酒母造りの手法の一つ。酒母造りの製法には、大きく分けて生酛系と速醸系があり、山廃仕込みは生酛系に属します。技術の進歩によって腐造(※1)のリスクを減らし、従来の約半分の期間で酒母が完成する速醸造りに比べ、伝統的な山廃仕込みはリスクが高い上に手間も時間もかかります。しかし、それでも農口杜氏は飲んでくださる人のために、力強い味わいに仕上がる山廃仕込みを極めたいと京都へ通って3年がかりで技術を習得。
「酒は人間を楽しませるためのもの。飲んでも楽しみが湧いてこないような酒は造っても無駄なんです」
こうして代名詞となった「山廃仕込み」ですが、速醸系酒母に比べて生酛系酒母は、酒質が強いため熟成に向いていると言われているのです。
さらに、農口杜氏は無濾過生原酒や無濾過原酒の造り方を多く採用します。フレッシュさや日本酒本来を味わうことが目的だと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実は熟成にも適していると言われています。
特に加水や水分調整を行わないこと(原酒)は瓶詰め後も熟成が進みやすくなり、質の高いものほど味わいの調和がとれてくるのです。造りたての荒々しさが落ち着いて、まろやかさが感じられるのが熟成の特徴だと言えます。
実は熟成のメカニズムについては、研究を重ねてきた農口杜氏にもまだ解明できていないと言います。
「熟成することでなぜこうも味が調和してくるのか、詳しくは私もまだ分かっていません。分かっていることは大体3年くらい寝かせたら不思議と角が取れたようなまあるい味になるんですよ」
※1 仕込み中の醪や仕込み後の日本酒が、火落ち菌が原因で酒質に変調をきたすこと。腐造の発生は蔵の経営を左右するほどの被害があり、これが原因で廃業に追い込まれる蔵もあった。
理由②現代の名工・農口尚彦の酒造りを後世へ残す
御年92歳。「やりたいことはまだまだある」とにこやかに話します。“酒造りは夢造”と掲げ、革新を恐れずに70年間突き進んできた頭の中には、今も無限の夢が広がっているのかもしれません。
その大きな夢の一つが、自身の酒や酒造りを次の世代へ残すことだといいます。今まで農口杜氏が酒造りを教えてきた人の数は、300人ほどにもなるといいます。その弟子たちは日本各地、更には世界で活躍する者も。
彼らは農口尚彦という人が生涯を酒造りに捧げた証でもあり、次世代の日本酒業界を担っていく存在になる可能性を秘めています。
「とにかく日本酒の素晴らしさを広め続けてほしいんです。それは歴史や価値観を含めた文化として大切に残す。それをふまえた上で進化していくべきものだと思います」
我々『農口尚彦研究所』は“農口尚彦が酒造りを研究する場所”でもありますが、同時に“農口尚彦の技術や精神性を含めた酒造りを研究し、次世代に継承するために作られた場所”でもあるのです。
農口杜氏が日々おこなっている酒造りにおける温度、湿度、時間など様々なデータはすべてアーカイブされています。これは今後の日本酒業界の発展のために必要なデータだと我々は感じているためです。ただ、前述のとおり今でも熟成のメカニズムが解明されていないように、データや数値だけでは分かり得ないことも、酒造りにはまだまだ多くあるはず。
それを担うのはもちろん「人」。記録されたデータに基づいて出来上がった日本酒はどのようなものなのか、後世の人間たちが飲むことができることで、今後の日本酒業界の飛躍を後押しできるものになるかもしれません。造り手はもちろん、それはお酒を飲むお客様も同様です。日本で生まれ、育まれてきた文化に対して、これからの価値を決めていくのは飲み手であるお客様。
だからこそ、後世でもたくさんの方が現代の名工・農口尚彦の日本酒を味わうことができるように、我々は多くの投資をしてでも「熟成」という形で彼の酒を守っていく必要があると考えています。
ただし農口杜氏は、一概に熟成というやり方を勧めているわけではありません。
「熟成させるということは、そのための設備やランニングコストがかかります。造った酒はなかなかお金にならないし、販売する時にもその分を商品の価格にのせて売らなきゃいけないでしょう。じゃあお客様はその金額を出してどんな酒だったら満足してくれるでしょうか。金額に見合った価値のある美味い酒でなければいけないわけです。やはりリスクも大きいですよ、熟成は」
しかしそう言いながらも、貯蔵庫拡大を決めたのは農口杜氏。現在販売されている日本酒も、熟成が前提にあるため一般的な日本酒と比べると比較的高単価なものも多くあります。
農口杜氏の言葉は裏を返せば、“自身の日本酒にはその価値がある”と言っているようにも思えます。この貯蔵庫拡大は、農口杜氏がそれほどの研鑽を重ねてきた自信の表れと言ってもいいのかもしれません。
「その大きなリスクを背負ってでも飲んでいただく価値のあるお酒ができたということでしょうか?」そう投げかけると、農口杜氏は無言で「ふふふ」と笑みを浮かべました。
どうやら我々はまだまだ農口尚彦という人を研究する必要がありそうです。
完成した新たな貯蔵庫。
瓶熟成のための貯蔵以外にも、様々な機能を持たせた建物となっています。どうぞ乞うご期待ください。